104−098
2006年6月2日
岡崎正尚
・ 薬としての死体U
明治期においても、人体の一部が薬になる、という認識は一般的だった。だからこそ、人体の一部を薬用に使用する事件も、頻発していた。薬用の人体目的でも、殺人事件にまで発展した例は
・ 母親の難病を治すために不貞を働く妻を殺害した、明治25年の大分県での妻殺し
・ 明治36年から38年にかけて長野県で合計4名が殺害された、当時29歳の馬場勝太郎による、生き胆目当ての連続殺人事件
などがある。しかし、そうした殺人事件の中でも最も特筆すべき事件は、明治35年3月から明治38年5月にかけて起こったとされている、野口男三郎事件だろう。馬場勝太郎は、尋常小学校を出た程度の学歴しか無かったが、男三郎は、中学中退程度の学歴は持っており、当時としては教養も高い部類であった(男三郎の教誨師であった田中一雄氏によれば、中学卒業以上の教養はあったという)。その意味で、この事件は、驚くべき面がある。
野口男三郎に関わる一連の事件は、当時、大々的に報道され、「夜半の憶出(別名、男三郎くどき)」という、事件に題を取った唄まで作られた。また、26歳の美青年でもあり、口の達者な虚言癖の持ち主でもあり、弁護人であった花井卓三からも、不可解な人物、と評された男だった。それに恋愛、という要素が絡んだため、ワイドショー的感覚で大々的に喧伝されたのだろう。男三郎の事件は、厳密に言えば、ここに書くのは不適当かもしれない。男三郎は、薬用のために人体を用いようとして人を殺めた、という事件でも起訴されているのだが、その件に関しては無罪判決が下ったからだ。男三郎が起訴された殺人事件は、以下の三件の事件だった。
第一の事件
愛人の兄は、野口寧斎というペンネームを持つ、有名な漢詩人であった。その寧斎は、ハンセン氏病に臥せっており、男三郎の愛人であった女性も、同様の病に侵されていたらしい。男三郎は、二松学舎で論語の講義を聴いている時に、講師の言葉からその事を知った。或る時、男三郎は、寧斎を慰めるために桜の花を買って寧斎を見舞った。寧斎は喜び、人肉をもって学者の治療を行なった門弟の話をした。
明治35年3月27日、東京の麹町で、11歳の少年が殺害された。臀部の肉が、肛門を中心として、横九寸、縦四寸五分、鋭利な刃物で切り取ってあった。両眼も抉り出されていた。
第二の事件
男三郎は、虚言癖の持ち主だった。語学学校を中退していたにも関わらず、通学しているように装っていた。そして、卒業する筈の年次となった時には、卒業証明書を偽造し、愛人と寧斎を騙した。その後、働かない事を寧斎に怪しまれたため、明治36年12月、志願兵に行く、と言って、野口家を出た。そして、通訳官であると偽って、神奈川県在住の元憲政党議員の家を訪れ、同家に逗留した。そして、その家の夫人と肉体関係を持つようになった。うまい事を言って金を引き出させて、その夫人と二人で東京に行く事もあった。そのため、その憲政党議員の家からは追われ、野口家に戻った。そして、愛人が男三郎の子供を身ごもったため、男三郎と愛人は結婚した。しかし、元憲政党議員の妻と男三郎の関係は未だに続いていた。男三郎は、その妻から、小遣いをせびっていた。その事と、志願兵の話が嘘だった事が露見したために、男三郎と寧斎の仲は悪くなり、男三郎は離縁され、野口家を飛び出した。後に、愛人を介して関係を修復しようとしたが、上手くいかなかった。
明治38年5月14日午前5時30分ごろ、男三郎の愛人が、寝床で冷たくなっている寧斎を発見した。寧斎の鼻腔からは微量の出血が確認されたが、これはハンセン氏病によるものであり、死因とは無関係である、という事だった。死因は、心臓麻痺か脳溢血だと判断された。
第三の事件
明治38年5月24日、薬屋の青年が失踪し、裏山で首吊り死体となって発見された。その青年は、前日に、大金を持って、別の青年と共に店を出て行った。その一緒に出て行った青年こそが、男三郎だった。男三郎は、この事件に関して、強盗殺人として、逮捕、起訴された。
男三郎は、三件の殺人を自白したが、公判では、第一、第二の事件を否認し、物証の揃っている第三の事件のみを認めた。検察官は、三件の事件に対し死刑を求刑したが、男三郎は、第一、第二の事件に関しては無罪となり、第三の事件のみ有罪となって、明治39年5月16日に、死刑判決を受けた。明治40年7月23日、東京控訴院でも死刑判決を受け、同年10月10日、大審院で死刑が確定した。死刑執行は、明治41年7月2日午前9時に成された。
第一、第二の事件は、男三郎の自白を除いて証拠は無く、無罪判決は、当然の成り行きだったかも知れない。ただこの事件からは、警察や検察が、男三郎のような教養のある若い男も人体の薬効を信じており、そのために犯罪を行なってもおかしくない、と考えていた事が読み取れる。
実際、犯行を認定されたインテリの生き胆とりも居た。明治35年12月27日には、熊本県において、当時49歳の士族出身であり、学校の教員の職にもあったことのある男が、生き胆をとることを目的として、5、6歳の少女を殺害している。少女の死体は、肝臓、胆嚢、十二指腸の一部を切り取られていた。死体が発見されたのは、翌年1月21日であった。男は、妻と五男二女を抱えており、当時は傘職人として生計を立てていた。当初は犯行を認めていたが、一審で無期懲役の判決が下ると犯行を否認し始めた。二審においては、懲役15年の刑が言い渡された。
以上の事件を考察すれば、馬場勝太郎のような教養の低い層だけではなく、当時の日本のインテリ層においても、人体の薬効は一般的に信じられていた事が伺える。
参考文献
・ 「大江戸残酷物語」氏家幹人、2002年6月21日、洋泉社
・ 「近代犯罪資料叢書7(死刑囚の記録)」田中一雄、1998年8月26日、大空社
・ 「明治犯罪史正談」小泉輝三朗、1997年、批評社
・「明治大正昭和平成事件犯罪大辞典」、2002年、東京法律学院出版