2006年12月8日

104−098

岡崎正尚

 

・警視庁指定事件について

1956年、警察庁は、各都道府県系の間の摩擦を解消するため、「治安に相当影響を及ぼし、又は、社会に衝撃を与えるような重要な犯罪や全国的に又は都道府県の区域にわたって特別に捜査を必要とする事案」について、各都道府県警察は他の事件に優先してその事件に取り組み、他の都道府県警に情報収集その他の協力をする義務を帯びる、重要被疑者特別要綱を制定した。

                 ↓

さらに一歩踏み込み、警視庁指定がうまれるきっかけとなったのは、1963年に起こった西口彰による広域連続強盗殺人事件であった。西口は、1963年10月18日に福岡県で2名を強盗目的で殺害し、瀬戸内海で偽装自殺した後、1963年11月18日、静岡県で旅館の母子を殺害し、金品を奪い、旅館の主人を装って家財道具を売り飛ばし、逃走した。さらに、12月には東京で、もと検察官の弁護士を殺害した。

 

人名が奪われた広域指定事件は以下の通りである。

<広域指定105号事件>西日本連続強盗殺人事件

1965年の11月9日、滋賀県で59歳の水泳場管理人が殺害されているのが発覚した。11月3日に殺害されたようだった。同年11月22日、福岡県で、英語塾教師の初老の男性が殺害された。現場には、OIと名前の書かれたズボンが脱ぎ捨ててあった。警察がそのズボンの持ち主を尋ねた所、そのズボンの持ち主は、住処の掘っ立て小屋の中で、布団を被せられ、腐臭を放っていた。OIさんは、10月3日に殺害されていたのだった。3県にまたがる事件へと発展したが、捜査はまだ兵庫と滋賀にまたがる近畿管区警察局指定に留まっていた。しかし、124日、滋賀県警は遺留指紋から、古谷惣吉(51歳)の犯行と断定し、全国に指名手配した。古谷には、たくさんの前科があり、2件の強盗殺人事件の従犯として懲役10年の刑を受けた事もあった。福岡県警、京都府警も、古谷を強盗殺人容疑で全国指名手配した。129日、事件は警視庁指定された。1211日、京都で相次いで二人の老人の死体が発見された。二人とも、やや離れた場所で、123日に殺害されていた。古谷は、1212日、最後の死者となる被害者二名を襲撃している所を、被害者のうめき声を聞きつけた巡査二名によって現行犯逮捕された。被害者二名は頭を割られて苦しんでいた。数時間後に死亡した。古谷は、落ち着いた態度で逮捕されたという。105号事件の逮捕後、古谷は、大阪の大槻で、さらに1名を殺害している事を自白した。古谷の言っていた場所で、死体は発見された。6512月5日に殺害されていたのだった。105号事件による死者は、合計8名となった。

古谷は、懲役10年の判決を受けた強盗殺人の前科について、自分が主犯だったと供述した。強盗殺人の前科で古谷が軽い刑ですんだのは、その事件の共犯者が、古谷の逮捕時すでに死刑を執行されていたため、前科の裁判の時には古谷の供述に頼らざるを得なくなったので、このような量刑の差が生じたらしい。前科の量刑については、一種の誤判の感も拭えない。古谷はまた、他にも2件の殺人をほのめかした。内一件は、被害者殺害前に被害者と話をしたため、被害者の生い立ちを詳細に知っていた。しかし、この件については起訴されなかった。結局、8名に対する強盗殺人事件と、強盗事件で起訴されたのだった。

古谷は、公判では共犯者の存在を主張したが、1971年4月1日、神戸地裁で死刑判決を受けた。75年12月13日、大阪高裁で死刑判決を受け、78年11月28日、最高裁で死刑判決をうけ死刑は確定した。そして、1985年5月31日、71歳で死刑が執行された。この年齢は今の所、戦後日本における最高齢の死刑執行の事例である。

 

<広域指定106号事件>混血少年連続強盗強姦殺人事件

1966年12月13日、愛知県で殺害された妊娠九ヶ月の若妻は、首にタオルとロープを巻かれ、水の張った浴槽に放り込まれていた。同月27日、千葉県で殺害された若妻は、帯締めで絞殺され、絆創膏で口を塞がれ、左乳房には折った竹べらで刺された傷跡があった。1967年1月16日、山梨県で裁縫師の若い女性が自宅で殺害された。アイロンコードで梁に吊るされ、陰部にはソーセージ、卵、きゅうりが挿入されていた。この3事件は、警視庁指定された。犯人は、警視庁指定されてから数時間後に逮捕された。

逮捕されたのは、16歳の黒人との混血の少年だった。「この肌の色と縮れ毛が憎い」と取調室で叫んだ。出自にコンプレックスを持ち、孤独感に苛まれていたらしい。若い女性に嘲笑されているように感じ、憎しみを抱いていた。検察官は死刑を求刑したが、1972年9月、少年は法律に従い無期懲役の判決を受けた。少年は控訴しなかった。

 

<広域指定107号事件>横須賀線列車爆破事件

1968年6月16日、横須賀線の列車内で、突如荷物が爆発した。1名が死亡し、28名が重軽傷を負った。当時、全国で無差別爆破事件が続発しており、そうした事件との関連も考慮に入れたのか、この事件は警視庁指定107号事件に指定された。大工の若松善樹(24歳)が逮捕された。若松は、向学心があり、仕事の出来る、内向的な大工だった。別れた彼女に対する恨み、自らの不運に対する怒りから、列車に爆弾を仕掛けた。16日に犯行を行ったのは、半ば怨念だったかも知れない。父親が戦死したのが16日、彼女と出会ったのが16日、彼女とわかれたのが16日、仕事場をやめることになったのが16日だった。そして、6月16日は、父の日だった。1969年3月20日、横浜地裁で一審死刑判決を受け、1970年8月11日、東京高裁で死刑判決。最高裁で71年4月22日に死刑判決を受け、75年12月5日に死刑が執行された。

 

<広域指定108号事件>連続射殺魔事件

1968年10月から11月にかけて、東京、京都、北海道、愛知で、4名の男性が次々と射殺され、現金を奪われた。犯人の逮捕前から、警視庁指定事件に指定された。69年に、永山則夫(逮捕時19歳)が逮捕された。1979年7月10日、東京地裁で死刑判決を受けた。しかし、81年8月21日、高裁で無期懲役に減刑される。検察は、これに対し、戦後初の検事上告を行った。1983年7月8日に、最高裁第二小法廷は破棄差し戻しと判決をする。1987年3月18日に、東京高裁は死刑判決を下す。そして、1990年4月17日、最高裁第三小法廷は、再上告を棄却した。1997年8月1日、永山則夫は死刑を執行された。

 

<広域指定111号事件>連続女性誘拐殺人事件

1980年2月23日、富山で女子高生が誘拐された。そして、3月6日に、岐阜県で絞殺死体となって発見された。1980年3月5日、長野でOLが行方不明となり、自宅に身代金要求の電話がかけられた。OLは、4月2日に長野県内の山中で絞殺死体となって発見された。事件は、犯人の逮捕前に警視庁指定111号事件に指定された。やがて、宮嵜友子(34歳)、Kさんの二名が逮捕された。宮崎は、愛人関係にあるKさんと共同で事業を行なっていたが、経営状態は芳しくなかった。宮崎の人物像は、IQは138と高く、美人だったが、虚栄心が強くヒステリー的な性格と言われている。検察官は両名を共謀共同正犯、宮嵜を殺人の実行役としたが、1988年2月9日、富山地裁は宮崎に死刑、Kさんに無罪を言い渡した。検察、宮崎の弁護人は控訴したが、1992年3月31日に名古屋高裁金沢支部で下された判決は同様だった。宮崎は、1998年9月4日に上告が棄却され、死刑が確定した。Kさんは、名古屋高裁で無罪が確定した。

 

<広域指定112号事件>藤沢母子等殺害事件

藤間静波(逮捕時21歳)の母親は、藤間を甘やかす一方、藤間の妹を溺愛し、兄妹喧嘩になった時は、藤間を縛って押入れに閉じ込めるなどしていた。藤間は、子供時代から粗暴であったが、苛められてもいた。高校は中退し、窃盗事件を重ね、少年院にも入った。

1981年10月6日、神奈川県戸塚区で、青年の遺体が発見された。青年は数十箇所を刃物でメッタ突きにされて殺害されたようだった。幾人かが捜査線上に浮かんだが、犯人と特定する事はできなかった。その翌年、1982年5月27日夜、帰宅したAさんは、家の様子がいつもと違うのに気付いた。電話線が切られ、物が若干床に落ちていた。娘達が親子喧嘩でもしたのか、と思ったAさんは、女子高生と女子中学生の娘の死体を屋内で発見した。女子高生は20箇所、女子中学生は7箇所を刺されていた。110番した後、駆けつけてきた警察官は、Aさんの奥さんの死体も発見した。すぐに、被害者の女子高生にしつこく付きまとっていた藤間が、容疑者として浮かんだ。藤間は、奇行の目立つ、執念深い、非行歴のある無職の男で、女子高生に交際を断られてからは、デートに使った金を返せ、と付きまとい、イヤガラセの電話をかけたりもしていた。藤間は、6月に逮捕された。そして、戸塚事件との関連も疑われた。というのも、藤間と被害者の青年は少年院仲間であり、引ったくりの金の分け前をめぐって、二人は言い争いをしていた。そして、藤間は、兵庫県尼崎市での少年院仲間の少年への殺害にも関与が疑われた。少年は、藤間に誘われ、藤沢事件に関わった可能性が指摘されていたのだ。殺害方法も、クリ小刀でメッタ刺しにする、という方法で、他の4名に対する殺害方法と酷似していた。事件は、5名に対する殺人で、警視庁指定112号事件に指定された。

藤間は、当初否認していたが、遂には自供。しかし、公判ではまた否認に転じた。しかし、一審公判の途中からは、再び犯行を認める。そして、1988年3月10日、藤間は死刑を言い渡された。判決言渡しの時、藤間は、暴力団組長を尊敬している、と全く関係の無い事を言い出し、さらに、何度かピースサインを送った。裁判長は、「だから反省がないと思われるんだ」と藤間を諭した。裁判長は、この判決で、死刑判決には異例の主文冒頭言い渡しを行った。藤間にかなり悪い印象を持っていたらしい。藤間は、連行される途中、報道陣に向けてもピースサインを送った。藤間は控訴したが、控訴を取り下げた。しかし、弁護人は、控訴取り下げには拘禁症が影響しているとして、取り下げの効果を認めないよう、裁判を起こした。1995年、控訴取り下げは無効である、と最高裁は判断した。審理は再開され、藤間は、2000年1月24日、東京高裁で死刑判決を受けた。2004年6月15日、藤間の死刑は確定した。

 

<広域指定113号事件>広域連続強盗殺人事件

 勝田清孝(逮捕時34歳)は、確かに真面目な消防士だった。しかし、少年院に入った前歴をカバーしようとするのか、極度に見栄っ張りで浪費癖があった。夜は、自らの浪費へ気の足しにするために、強盗、窃盗を繰り返し、遂には強盗殺人にまで手を染める事になった。1972年9月13日に、盗みに入った先のホステスに警察に訴えるといわれ、殺害したのをきっかけに、1983年までに、8件の強盗殺人、2件の強盗殺人未遂を敢行した。

警視庁指定された事件は、1982年10月27日、名古屋で警官をはねて拳銃を奪った、という強盗殺人未遂と、同年10月31日、滋賀県でその拳銃を使って工員を射殺した事件だった。

犯行を全て認め、1986円3月24日、名古屋地裁で死刑判決を受け、1994年1月17日、最高裁で死刑が確定した。因みに、強盗殺人の間に確定刑を挟んでいたため、二つの死刑が求刑され、二つの死刑判決を受けた。これは、勝田が戦後二人目である。一人目は、関東圏で47〜51年にかけて7人に対し強盗強姦殺人を行った栗田源三という男だった。勝田は、2000年末に死刑を執行されたが、執行までボランティアの点字翻訳に勤めていたらしい。

 

<広域指定115号事件>元警官連続強盗殺人事件

1984年9月4日、京都府で警察官が刺殺され、拳銃を奪われた。それから二時間後、現場から2キロ離れた大阪府のサラ金で、店員が射殺され、73万円が奪われた。事件は、犯人の逮捕前に警視庁指定115号事件に指定され、両事件から5日後、広田雅晴(41歳)が千葉県の実家近くで逮捕された。広田は、元巡査部長だったが、強盗事件を起こして首になった、という前科があった。前科では懲役7年が下されていた。獄中で、広田は、「出所した折は、私は京都府警に対し『ふくしゅう』をしてやるつもりでいます。そうでなければ、私は死んでも死にきれないのです」と左翼系機関紙人民日報に手紙を送っている。捜査段階で自供はしていたものの、公判では否認に転じた。しかし、1988年10月25日、広田は大阪地裁で死刑判決を受けた。1997年12月、死刑が確定。

 

<広域指定116号事件>赤報隊事件

朝日新聞社が襲撃され、記者2名が殺傷され、一名が死亡した。そのほかにも、爆発物が仕掛けられたりした。広域指定されたが、犯人は逮捕されないまま時効を迎えた。

 

<広域指定117号事件>連続幼女誘拐殺人事件

宮嵜勤による連続幼女誘拐殺人事件。逮捕後に警視庁指定される。

 

<広域指定118号事件>連続誘拐殺人事件

 1991年5月、塗装会社社長が誘拐され、身代金と引き換えに開放された(千葉事件)。千葉事件主犯の迫康裕(50歳)、共犯2名が逮捕された。そして、取調べが行われるうち、2件の殺人が発覚した。迫とNという共犯者は、89年の塗装会社社長誘拐殺人事件(福島事件)にも関与しており、また、迫は86年に起こった金融業者殺害事件(盛岡事件)にも関与していた。盛岡、福島両事件に関与していたのは、迫を除けば、盛岡事件主犯岡崎茂男(37歳)、福島事件主犯熊谷昭孝(48歳)、熊谷の弟のKM、別の共犯者SKだった。岡崎茂男は、元岩手県警捜査一課の敏腕刑事であり、岩手県の幼児誘拐殺人事件の捜査に携わったこともあった。岡崎は遅れて91年10月31日に逮捕された。盛岡、福島両事件に関与した5名に死刑が求刑され、1995年1月27日、岡崎、熊谷、迫の3名に死刑判決、KMSKの二名には無期懲役判決が下された。Nは病死し、福島事件のみ関与のII被告には、無期懲役の判決が下された。2004年6月25日、一審で死刑が下された3名の死刑は確定した。

 

<広域指定119号事件>スナックママ連続強盗殺人事件

西川正勝(35歳)が出所したのは、1991年10月25日だった。彼は、1984年9月に旅館従業員の首を絞め、金を奪おうとした罪で、懲役7年を宣告され、服役していたのだが、その事件は奇妙な因縁を伴っていた。西川は、18歳の時、その旅館の隣にあるスナックで女性を殺害し、松江刑務所に10年服役していたのである。七年の判決が言い渡された犯行は、その事件で出所してから2ヵ月半後の事だった。そして、西川が出所して1月ほど経過してから、連続殺人が開始された。

 1991年12月12日深夜、兵庫県でスナックママが殺害された。さらに、21日に島根県のスナックでスナックママが殺害され、26日未明に京都のスナックママ、28日早朝に、第三の事件から300メートル離れたスナックでスナックママが殺害された。警察は4件を同一犯の犯行と判断し、29日、4件を警察庁指定119号事件に指定した。そして、姫路事件の遺留指紋から、西川の犯行と推測した。92年1月5日、大阪のアパートで女性落語家が首を絞められ、金を奪われた。女性落語家は5日間の怪我を負った。西川の犯行だった。翌1月6日、母子宅に押し入ったが、母親に悲鳴を上げられ、手を離している。そして、逃げる事無く暫しぼんやりとしていたらしい。母子家庭宅で聞かれるままに身の上話を一晩語った。西川は、姉4人の末っ子として生まれ、小学校三年生のとき母を亡くし、小学校五年生の時、父親は蒸発した。西川は、母子に自首を勧められた。母子の外出中も残っており、警察官に抵抗無く逮捕された。西川は、拘置所で2回自殺未遂を図っている。

西川は、公判では、兵庫の事件は認めたが、他の三件は否認した。女性落語家に対しても、殺意は無かったと殺意を否認した。しかし、4件とも有罪とされ、2005年6月、西川の死刑は確定した。

 

<広域指定120号事件>愛犬家連続殺人事件

1992年から1993年、大阪在住の愛犬家5名が、次々と失踪を遂げた。この事件は、警視庁準指定6号事件に指定された。事件に関っているとして、上田宣範(逮捕時39歳)が逮捕された。上田は、5人を殺害したことを自供した。1994年1月26日、長野県の農地で1993年10月25日に行方不明になった主婦の遺体が発見された。2月10日、大阪府の農地で、4名の死体が発見された。上田は、犬の安楽死に使う筋肉弛緩剤を投与して、5名を殺害していたのだった。事件は、広域重要指定120号事件に指定された。上田は、動機について、犬の取引をネタに金を騙し取ろうとしたが金を請求されたので殺害した、働かせていたが金を払わなかったので金を請求され殺害した、と供述した。しかし、同時に、人を殺すのが楽しかった、とも語った。

 上田は、公判では殺人を否認した。しかし、2005年12月15日、死刑は確定した。

 

<広域指定121号事件>日中強盗団連続強盗殺人事件

この事件の犯人たちは、常にグループで行動していた。1993年10月8日、静岡県沼津のパチンコ店が襲撃され、1048万円が奪われた。1993年10月27日、滋賀県で金融業者が殺害され、1400万円が奪われた。1993年12月10日、東京で金融業者が強盗目的で殺害されかけた。さらに、12月12日、群馬県高崎市でゲーム喫茶店長が拳銃で射殺され、12月20日には東京都足立区でマンション管理人が撲殺され金庫ごと数百万円が奪われた。

犯人は、全ての事件に関った下山信一(逮捕時33歳)、黄蛮善(逮捕時25歳)をはじめ、数名の人物が関与していた。黄は、殺意がなかった、通訳に誤訳がある、と主張したが、2004年4月19日、死刑判決は確定した。下山は、黄が実行犯だったので、黄が殺害するとは思わなかったと主張したが、2005年9月16日、上告が棄却され、死刑が確定した。

 

<広域指定122号事件>連続バラバラ殺人事件

1985年6月、知的障害者寮に住む女性のバラバラにされた遺体が、奈良県で発見された。事件から暫くして、奈良県高田署に、事件の詳細を記し、「捕まえられるものなら捕まえてみいや」という嘲りの手紙が届いた。差出人は、怪人22面相となっていた。1987年1月、大阪府で9歳の女児が拉致された。4月に、その女児の遺体は山で発見されている。女児の自宅には、身代金を要求する電話がかけられていた。1994年4月3日、大阪府の山中で、バラバラにされた女性の遺体が発見された。更に翌4日、其処から150メートル離れた地点で、別の女性のバラバラ遺体が発見された。警察は、この二重バラバラ殺人事件の被疑者として、1995年4月、スラックス窃盗事件で逮捕中の鎌田安利(逮捕時54歳)を逮捕した。鎌田の指紋は、奈良のバラバラ殺人事件の封筒に残された指紋と一致した。鎌田は、奈良、大阪のバラバラ殺人事件を自供し、警視庁は一連の事件を警視庁指定122号事件に指定する。そして、鎌田は女児殺害を自白し、さらに、1985年5月に、知人の大阪の主婦を自宅で絞殺し、兵庫県山中に遺体をばらばらにして遺棄したことを供述した。鎌田が自供した動機は、借金を申し込まれてかっとなった、金を要求されて腹を立てた、というものだった。女児殺害は、悪戯目的だったが騒がれて殺した、と供述した。

鎌田は、公判では全てを否認し、一審判決では、事件の間に確定刑を挟んでいたために死刑判決を2つ下されたものの、女児殺害の誘拐については無罪となった。しかし、二審では全てが有罪となり、2005年7月8日に上告棄却により死刑が確定した。

 

<広域指定123号事件>広域殺人、強盗、誘拐事件

1995年5月8日、熊本信金の職員が、ピストルを持った二人組の男に銃で撃たれ、現金の入ったバッグを奪われた。職員は全治一ヶ月の重傷を負った。7月25日、信金強盗事件の有力容疑者として、宮沢吉司(逮捕時39歳)、足立正巳(逮捕時34歳)が逮捕された。取調べの結果、彼等は、同年1月30日に起こった熊本県のパチンコ店社長誘拐事件に関わっていることも判明。宮沢ら6人が誘拐犯として再逮捕された。更に3人が指名手配され、合計12人が誘拐事件に関与していることが明らかになった。7月26日には、千葉、神奈川で起きた2つの殺人事件への関与が判明した。殺人事件は94年8月に発覚しており、殺害された二人は不動産の共同経営者だった。1993年8月の東京の不動産業者監禁事件、94年7月15日の宇都宮の不動産会社社長監禁事件に関与していることも判明した。宇都宮の事件では、被害者を4日に渡って監禁し、全治25日の怪我を負わせている。警視庁は、一連の事件を、警視庁指定123号事件に指定した。

 裁判は最初、福岡地裁で開かれたが、2件の殺人に関わった宮沢らは、横浜地裁で審理が行われた。グループの4人には、99年に判決が下った。主犯の宮沢には、無期懲役が言い渡された。宮沢は、控訴、上告したが、2001年には無期懲役が確定した。

 

<広域指定124号事件>マブチモーター強盗殺人等事件

小田島鉄男は、2002年に宮城刑務所を出所した。彼は、1990年、共犯者と共に一家7人を監禁し、3億円を強奪した事件で、懲役12年の判決を受け、獄舎につながれていた。小田島は、既に一つの目的を持っていた。刑務所で親しくしていて、先に出所している守田克実に会いに行くつもりだったのだ。守田は、殺人罪で懲役12年の判決を受け、同じ宮城刑務所に服役していた。同じ房、工場に配属されていた事もあった。義父から、守田から連絡があったことは聞いていた。生まれて初めての友人であり、自分の話をちゃんと聞いてくれ、自分を尊敬してくれる男に会いに行くのだから、小田島は少なくとも嫌な気分ではなかっただろう。

2002年8月5日午後3時半頃、千葉県松戸市で、マブチモーター社長宅から火の手が上がっているのが発見された。社長宅では、社長の妻子が殺害され、1000万円相当の現金、金品がなくなっていた。強盗目的、怨恨、諸説が乱れ飛んだ。2002年9月、東京都目黒で、老歯科医が、刺され、首を絞められて殺害されているのが発見された。2002年11月21日、千葉県我孫子市で、会社社長夫人が殺害されているのが発見された。

2005年11月、千葉県警は、情報提供者の情報に基づき、小田島鉄男(62歳)守田克実(54歳)の二名を、マブチモーター事件の容疑者として逮捕した。小田島は黙秘を続けていたが、守田は、小田島と二人でやったと自供した。守田は、マブチ事件の被害者の一人を直接絞殺していたが、被害者の焼け焦げた死体が夢に出てきて、ずっとうなされていたらしい。守田の自供によれば、小田島は宮城刑務所にいるときから、資産家宅に押し入り、皆殺しにして大金を強奪する計画を守田に話していた。会社四季報を見て会社の経営状態をまめに調べていたとの事だ。小田島は、警察に対しては黙秘を続けていたが、週刊誌上に、マブチ事件への関与を告白した。そしてその後、小田島は、さらに二件の犯行を、目黒事件、我孫子事件を週刊誌に告白した。守田も、小田島の告白した事件に関与を認めた。目黒、我孫子両事件は、守田が、「また資産家を狙いましょうよ」と小田島を誘い、小田島が計画を立てた、という流れだった。小田島は、警察に対しては事件への関与は認めたが、詳細を供述する事は拒んでいた。警察は、全ての事件の自供が成された後、二人を12月7日に我孫子事件で、6年1月13日に目黒事件で再逮捕した。そして、一連の連続殺人は警察庁指定124号事件に指定された。123号事件から、ほぼ10年ぶりの指定だった。

守田の初公判は2006年2月23日、小田島の初公判は公判前整理手続きが行われ、9月12日に、それぞれ千葉地裁で行われた。守田は、起訴事実を全面的に認めている。小田島は、外形的事実は認めているが、刑務所での計画は話半分だった、マブチ事件は強盗目的で押し入ったが現場で殺害を決定した、目黒事件は守田に被害者の拘束を命じたが守田が勘違いをして殺してしまった、と主張している。小田島は、こうした事を主張するのは言い訳がましい、として、11月2日の被告人質問では質問に答えることを拒んだ一幕もあった。弁護士の説得に応じて、11月14日、16日の被告人質問で、問いに答えた。守田には、第五回公判で、10月5日に死刑が求刑され、2006年12月19日に判決が予定されている。小田島への論告求刑は、12月21日に行われる予定である。

 

<参考文献>

連続殺人事件・池上正樹・同朋社出版・1996年2月

現代殺人事件史・福田洋・河出書房新社・1999年6月

警視庁広域重要指定事件完全ファイル・蜂巣敦・ぶんか社・2006年

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/7136/linker.html