11月10日
104−098
岡崎正尚
・有馬四郎助について
有馬四郎助は、文久4(1864)年、2月2日、現在の鹿児島県鹿児島市下荒田町535番地に、益光喜藤太の四男として生まれた。益光家は、代々鍛冶を生業とし、その歴代の功により、士班に加えられた。明治二年に、四郎助は、士族有馬平八の養子となり、有馬姓を継いだ。しかし、そのまま益光家で成長した。この養子縁組は、格式を重んずる家柄は家督相続人の居ない士族の株を求めて養子縁組をする、という当時の世相に従ったものであったらしい。
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明治12年、15歳で小学校高等科を卒業した。四郎助は成績抜群だったので、卒業後すぐに鹿児島県立師範学校付属小学校訓導補助として職を得た。その二ヵ月後、鹿児島県内の別の小学校の訓導となった。その小学校は僻村の学校だったが、ともかく、僅か15歳で正規の訓導となったわけである。しかし、その一年後、京都へ赴き、明治14年10月3日、京都府二等巡査を拝命した。3年後、鹿児島に戻り、鹿児島県警部補に任ぜられた。その後、北海道集治監の看守に自ら応募し、明治19年12月11日、北海道集治監看守長兼書記に任ぜられた。
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有馬四郎助は、釧路集治監に配属された。そして、この時の典獄であった大井上輝前は、有馬に最も感化を与えた人物だった。大井上は、釧路集治監の建設に尽力し、明治18年に釧路集治監の典獄となった。その後、北海道内の集治監に転々と勤務し、明治24年、北海道集治監の典獄となった。また、妻子は熱心なクリスチャンであり、北海道集治監へのキリスト教教誨師の導入に尽力した。47歳で行刑界を去る事となり、明治45年、64歳で死去した。
原胤昭も、有馬四郎助に大きな影響を与えた人物だった。原は、北海道集治監の教誨師に就任しており、囚人の待遇改善、免囚事業に心を砕いていた。北海道の最初の職場であった釧路集治監では、硫黄鉱山により囚人がばたばたと死に、看守も罹患する始末だった。明治20年6月までの半年間で囚人300余人中145人が罹病し、42名が死亡した。原は、人道上の問題であると、直ちに典獄に作業の中止を進言し、明治20年11月、漸く鉱山労働は止められた。また、釧路の土地を買い取って、免囚事業を行なおうともした。有馬は、原のこうした態度に、心を打たれた。クリスチャン嫌いだった有馬がキリスト教に近付いたのは、原がきっかけとなったのかもしれない。
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明治30年5月1日、有馬四郎助は洗礼を受け、キリスト教徒となった。同年8月10日には警視庁典獄に任命され、巣鴨監獄所長となったのである。横浜市内のキリスト教会をめぐって、監獄事業に対する市民の理解を深める方法を考えた。明治32年の神奈川監獄では、先例を破って、囚人に手紙を書く事を許した。また、日露戦争の折には、囚人の更正の一環として、軍夫として戦場に赴かせることを提案した。国への奉公が美徳と考えられていた、当時の情勢を反映しているのだろう。また、盲唖懲治場を明治37年3月に、横浜監獄内に設立した。障害を持つ囚人に教育を施し、また、障害の状況を調べ上げ、犯行動機、罪悪感を個別に記録し、出所後の成績も調査し、アフターケアを行なった。
そして、明治39年には、出所した少年の前科者を教育するために、小田原幼年保護会を設立した。
有馬の恩恵を被り、更生することが出来た囚人としては、元無期懲役囚の、好地由太郎がいる。好地は、慶応元年(1865年)5月生まれであり、明治15年7月、東京で勤め先の女主人を絞殺、放火して逮捕され、判決公判廷から逃走する事もあったが、犯行時未成年ゆえに無期懲役に減刑された。有馬の友人留岡の計らいで聖書に親しむようになり、明治30年の特赦によって無期が有期になり、神奈川監獄に移され、有馬と出会った。明治37年出獄となったが、その後は有馬の援助を受けながら、キリスト教の伝道に努めた。
《参考文献》
有馬四郎助・三吉明著作・昭和42年10月・吉川弘文館