2006年10月20日

104−098

岡崎正尚

 

・原胤昭について

原胤昭は、元与力であり、その職を辞してからは、明治9年にキリスト教系女学校を開設し、明治14年からは、錦絵問屋を始めた。明治16年、自由民権派の政治犯たちを称揚する錦絵を書いたが、その事で警察から警告を受けた。そのことに反感を持ち、販売が駄目ならば無料で配布すれば良いだろう、と、錦絵を無料配布したところ、逮捕された。そして、共犯者と共に有罪判決を受け、石川島監獄に収容されることとなった。この事が、元々保護事業をやろうと考えていなかった原の運命を変える転機となった。

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原は、囚人の生活は熟知しているつもりであったが、囚人としての生活は、与力としてのそれとは、雲泥の差があった。獄中で大病を患い、一時は生命も危ぶまれた。そして、囚人の悲惨な境遇を見て、保護事業の必要性を痛感した。監獄から釈放された後は、自宅で元服役囚の面倒を見るようになった。先ずは、親しかった囚人に、出所したら自分の家を訪ねてくるように言い、自宅に泊まらせ、或いは帰国のための金を出してやった。

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明治17年7月、原は、神戸仮留監獄の教誨師に赴任する。キリスト教徒としては、日本初の教誨師だった。獄舎に自ら足を運び、囚人一人ひとりの不満を聞き、その待遇改善に努めた。このような臨房教誨や個人教誨を始めたのは、原をもって嚆矢とするらしい。

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明治21年、原は、北海道集治監に移送される囚人たちが、原を慕っていたため、原も、家族ぐるみで北海道に移住することを決意する。キリスト教者による監獄の教誨は、始めは釧路のみにおいて試みられ、後に暫時北海道全域に拡大していった。原は、後に樺戸へと赴任した。そして、北海道の囚人が炭鉱工事により惨死を遂げている事を暴露した。そのために、囚人の待遇改善はなされたが、勤続は難しくなり、原を含めた5人のキリスト教の教戒師たちは、明治28年にその職を辞した。

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明治28年、原は教誨師の職務を辞してから、東京毎日新聞社に入って事務職についた。明治30年、皇太后崩御に伴う特赦が実施されたため、放免囚の為の出獄人保護事業が必要とされた。神田神保町に東京出獄人保護書を設け、以後は、東京で仮出獄者の保護事業に専念した。

<参考文献>

「刑罪珍書集」、原胤昭解題、1998年、大空社

「明治東京犯罪歴」、山下恒夫著、1988年、東京法経学院出版