10月13日
104−098
岡崎正尚
・北海道集治監の沿革
北海道における集治監は、明治14年より開かれた。最初は、東京監獄より明治14年4月下旬、囚人たち40名が移送された。その顔ぶれは、三分の一ほどは国事犯で、残りは終身懲役囚だった。因みに、北海道における集治監は、樺戸、空知、釧路、網走などが有名である。樺戸監獄は、月形潔典獄によって開拓された町である、月形町に建設された。
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当初の監獄における思想は、囚人を更正させる、というより、「全国の罪囚を特定の島嶼に流し総懲治監とする」という元老院決議にも見られるとおり、凶悪犯たちを僻地である北海道に島流しにする、そして、囚人を労働させて利益を生み出させる、というものだった。囚人に北海道の原野を開墾させて鉱山労働に従わせ、満期放免後もその地の開拓に従事させることも、眼目の一つだったのである。また、厳しい罰を与え、二度と罪を犯さないようにさせる、という考えが一般的だった。
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当時の監獄における囚人に対する待遇は、極めて過酷だった。北海道という極寒の地にいるのにもかかわらず、当初は足袋の使用は許可されなかった。凍傷により死に至る囚人、発狂する囚人、事故死する囚人が続発した。明治16年における炭鉱での爆発事故では、57名の囚人が死亡している。また、囚人たちの逃走が続発した。逃走の際、看守に少しでも抵抗を示したものは、容赦なく看守に斬殺された。無抵抗で捕縛されたものに対しても、耳に穴を開け其処に鎖を通して縛り付け、暗室に投じ、麻と皮で作られた衣服を着せ、バンドで締め付け、水をかける、といった、過酷な罰が待っていた。このようにすると、水が乾燥するにしたがって、衣服は縮み、囚人の体を締め付けて、苦痛を与える、というわけである。明治16年における樺戸集治監の脱獄囚は、32名であった。明治17年4月、脱獄囚が多いため、北海道においてのみ、看守の銃の携帯が許可されることとなった。銃の携帯が許可されてからは、脱獄数は減少していった。しかし、脱獄事件が無くなったわけではなく、看守を殺傷する凶悪な脱獄事件も時折発生した。
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北海道の集治監には、国事犯が多数収監されていた。その様な囚人たちは、釈放された後に、集治監における非人道的な取り扱いについて、世間に公表していった。囚人たちに対する強制労働には、批判が集まり、明治27年ごろから、囚人に対する強制労働は、徐々に廃止されるようになった。また、集治監は、1903年からは、監獄と名が改められるようになっていった。
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大正8年1月20日、村民の間に廃止を願う意見が増えたこと、その役割を既に終えている、という理由で、樺戸監獄は廃止された。在監していた数十名の囚人は、ほかの監獄に移され、樺戸監獄は無人となった。
参考文献
赤い人・吉村昭著・1984年、講談社