勝手に対決 第8回  〜絵で見る子どもの攻撃性〜

                              

地獄絵は攻撃性の発現

 各地域の小学校6年生に統合HTPテスト(一枚の絵に木と人と家の絵を描かせるテスト)を試みた。1981年と97年を比較して、後者では攻撃性や衝動性が前面に出てくる絵が明らかに多くなり、立体感やリアリティが希薄になり、人間が記号化され、こころの柔軟性や繊細さに欠けて平板である。また、闘争的な場面の、見るからに恐ろしい「地獄絵」もしばしば見られるようになった。

 

参考文献

福島章 (2000) 『子どもの脳が危ない』、 PHP新書

 

 

地獄絵は攻撃性とは関係ない

「安楽な暮らしをしているときは、絶望の詩を作り、拉がれた暮しをしているときは、生の喜びを書き綴る。」

 ティベリウス、ネロ、ヘリオガバルス、ジル・ド・レ。古の権力者に、快楽を貪ることと、悪魔の所業はつきものである。誰も自分に逆らえないということを確信すると、快楽へ突き進む。真実を伝えてくれる賢臣・忠臣は排除する。

 今の子どもたちにも彼らに近いことが言える。家庭でも、教育現場でも過去を反省し、自由に、傷つけないように育てようという雰囲気があり、それが行き過ぎることも多々ある。「叱らないで育てよう。体罰などもってのほか。」「給食も含めて、食事は好きなものを食べられるだけ」というのが罷り通っている。

これでは子どもが、親も教師も自分の言いなりだと錯覚してしまう。気に入らなければ、喚き散らして暴れる。学級崩壊や誇大自己といった問題は、攻撃性とは違う、甘えや低俗な自由の発現・具現化である。

 地獄絵を描く子どもが求めているのは、あえてタブーに触れ、その時の周囲の人間の反応を見ることである。本気で叱らない、腰の引けた大人を確認することである。「攻撃性が高まっている」「心の闇」などと騒ぎ立てては、独りよがりで、稚拙な妄想を盛り上げるだけである。

 

参考文献

太宰治 (1947) 『晩年』、 新潮文庫

桐生操 (2005) 『人はどこまで残酷になれるのか』、 中公新書ラクレ