犯罪に関する報道について

 

子どもから見て、大人のバタバタ、あるいはバタバタ感というものは面白い。

例えば、運動会での校長先生。マイクを使って話をしようとするが、ピーっとけたたましくハウリングが鳴り響く。あわてて体育の先生あたりが駆け寄ってきて、何とかしようとするが、それでも鳴り止まない。それを見た生徒の多くは、おもしろい、おかしいと感じる。

いい年をした大人の、慌てふためく姿というのはなんとも面白いものである。

 

これはマクロな視点で見ても言えることではないだろうか。

一度、少年事件が起こると、メディアの報道合戦が始まり、精神科医などがここぞとばかりにコメントする。世論は「少年法の厳罰化」、「性犯罪者の情報公開」などといったことへ向い、さらにはメディアまで味方につける。それに押される形で法律が変わる。急な事態に慌てて対処しようとするのである。

 

大人たちのこういった一連のドタバタ劇を少年たちはどのような目で見ているのだろうか。

人を殺したところでいいことなど何一つ無いとは誰もが考えるところであろう。だが少なくとも、世間は騒ぎ、場合によっては法律まで変わってしまうのである。人を殺すこと自体ではなく、その後の波紋を期待した犯行というものが少なからずあるだろう。

 

犯罪に関する報道は淡白なものにすべきである。いたずらに加害者への怒りを煽るもの、被害者への同情を誘うものは止めるべきである。これらは誰かに強要されずとも、誰もが持っている禁じえない情動である。

 

 

 

死刑について 1

 

「生きるより死ぬほうが辛い」というのが常識であり、死刑が極刑である理由でもある。

しかし、本当にそうだろうか。

自殺者の数は、2004年は約34,000人、2005年は約32,000人である。

 

犯罪者は、まだ生きていたいと望んでいるという前提で裁かれている。

20016月、大阪府池田市の大阪教育大学付属池田小学校で、児童8人が殺害され、児童と教師15人が重軽傷を負うという事件が起こった。この事件の犯人、宅間守には死刑が執行されたが、宅間は最初から死刑になることを望んで犯行に及んでいた。宅間の晩年の願いは叶ってしまったことになる。

宅間は公判中、自身の犯行について「子どもたちに不条理を分からせたかった」と発言した。死刑を望む人が他人を殺し、望みどおり死刑に処せられることは、確かに、不条理としか言いようが無い。

 裁判で死刑が妥当だという場合、最も大事なのは被告の生への執着である。執着が強ければ死刑に処す。執着が弱い、あるいは全く無いという場合は、生きる辛さをもって刑罰とすべきである。具体的には強制労働に就かせ、自殺を決して許さない状況を作ることである。

 

 

 

死刑について 2

 

死刑制度の犯罪抑止力については疑問を感じる。計画的であれ、無計画であれ、今まさに犯行に及ばんとする刹那に、死刑の事を考えるとは思えない。