殴られもせずに一人前になった奴がどこにいるものか                       

 

過保護

 親が子供に対して過保護になるときは、その背景に自分の欲求不満を代償したいという願望が隠れていることがある。

 例えば、「家が貧しかったために、やりたいことができなかった。だから子どもには好きなことをやらせてあげたい」「病気がちで健康面で苦労した。だから子どもには手をかけてやらなくてはならない」などである。

 過保護な親に育てられた子どもは、当然、親に甘えた状態になる。そのまま放置しておくと思春期のころ不安神経症になることがある。

 

子どもより先に不安に陥る親

昨今、親心というより親の弱さが目につく。

例えば「子どもが苦しむのを見ていられない」「見ていると子ども以上に親が苦しくなる」「親が不安を回避したいので手を出してしまう」といった様子である。

人間は悩みをバネに成長するのである。「悩ませない」「悩みをとってやろうとする」ことは、子どもを大人に成長させまいとする行為である。

親や友人が苦しんでいる自分をそっと見守っていることを実感できれば、子どもはつまづき倒れたままにはならない。

 

乳児の頃から我慢を覚えさせる

授乳編

 月齢がすすむにつれて、少しずつ待たせてから飲ませるようにする。

しばらくほうっておくことで、飲む量が増える→授乳回数が減る→夜起きなくなる→離乳食をとりやすくなる→大人の摂食習慣へ近づく。

 泣き叫んでも「泣くのは子どもの仕事」「心肺機能が強くなる」と構えているのがよい。

 

紙おむつ編

 排泄物の垂れ流しは不快である。だからすぐに泣いて知らせる。次に不快のまま少し放置すると、次第に出そうになったときサインを出すようになる。

間に合わない→直前に知らせるようになる(トイレットトレーニング)→オムツがはずれる→排泄の自立へいきつく。

 

 

思い通りにならない社会を体現させる

 親は本来、ものわかりの悪い存在である。なぜなら、子どもやり30年近く先に生まれ、既存の社会の規範のなかで生活しているからである。新しい感覚を身につけながら育っていく我が子に、生理的な違和感を持つのは当然である。よって、子どもから見れば、親は本質的にものわかりが悪いのである。

 親が体現しているこの社会の「ものわかりの悪さ」とどう折り合いをつけ、のり越えていくか、このプロセスが「大人になる」ということである。

また、親は、断固とした意見を子どもにぶつける事が重要である。ものわかりの悪さには2通りある。話し合い路線のガンコと、有無をいわせぬ、ときにはゲンコツの一つも飛ぶガンコである。後者は、正しいとは言い切れないが、最も悪いのは、態度が変わることである。ときに話し合い、ときにゲンコツでは、子どもは混乱するばかりで、伝えたい「親の揺るぎなさ」は伝わらない。肝心なのはコミュニケーションの内容ではなく、形式である。

 

攻撃の儀式化

 1973年にノーベル医学生理学賞を受賞した動物行動学者のコンラート・ローレンツ氏は「人間というのは、唯一同じ種族同士で殺しあう種である。」と発言している。

 牙や爪など強力な武器を身に付けている猛獣どうしが闘う時には、一つ間違えば取り返しのつかない結果になる。しかし、そうした結果になることは実際には極めて少ない。それは、敗北のサインという強力な攻撃抑制刺激が働いているためである。戦いの最中に不利と思った側は背走するか、あるいは敗北を表すサインを攻撃側に向って示す。サインが示された後は攻撃者の行動はほとんど瞬時に停止する。ローレンツはこれを「攻撃の儀式化」と名付けた。

では、なぜ人間だけが殺しあうのか、その理由は2つある。

1つ目は武器の登場である。ナイフや銃といった武器が、それまで保たれていた攻撃本能と攻撃抑制本能のバランスを崩してしまった。武器によって、相手が敗北のサインを示す前に命を奪うことができてしまい、攻撃を儀式化する時間がなくなってしまった。

2つ目は「攻撃の儀式化」が学びづらくなっているということである。昔は子供同士がよく喧嘩をし、友達に怪我をさせ、親と一緒に謝りに行くというということも会った。兄弟喧嘩も日常茶飯事だった。

子ども時代に喧嘩をしなくなったことによって、手加減の仕方が分からなくなった。そのため敗北のサインに気付かず、手を抜くことができないのだ。

 

参考文献

山崎晃資 (2005) 『発達障害と子どもたち』、 講談社+α新書

中沢正夫 (2001) 『子どもの凶悪さのこころ分析』、 講談社+α新書

大渕憲一 (2000) 『攻撃と暴力』、 丸善ライブラリー

岡崎博之 (2006) 『殺人心理学入門』、 宝島社