戦後最初のストーカー事件(?)

 

愛新覚羅 浩 (1914-1987

 嵯峨侯爵家の長女として生まれる。女子学習院高等科卒業。日本が戦争の泥沼に陥りつつあった1937年、関東軍の政略により、清朝最後の皇帝で、満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟、溥傑と結婚。’38226日に長女の慧生を、’403月に次女のコセイを出産。日中の架け橋として健気にその務めを果たしていた。

日本の敗戦で満州国が崩壊、夫は戦犯として拘束される。動乱の中国各地を逃避行した後、’47年日本に帰国する。’57年には長女の慧生を「天城山心中」事件で失う不幸にも見舞われた。’61年、特赦となった夫と再会、中国に移り住む。

 

慧生

1943年の春、学習院の幼稚園に通うため日本に来る。この年の秋には、溥傑が陸軍大学校に通うことになり浩、コセイとともに日本に来る。しかし陸軍大学校の人員が次々と徴用され、事実上閉鎖状態になったことを受けて、’452月に溥傑、浩、コセイは中国へと引き上げる。‘47年、学習院初等科に通う慧生は、浩とコセイとの再会を果たす。

幼い頃から物静かで落ち着いた考え方をする子で、将来はヴァイオリニストになりたいと日夜ヴァイオリンに熱中していた。また、本が好きで、小学校6年生になると藤村詩集などを愛読し、自分でも和歌や詩を作っていた。

読書好きはますます嵩じて、中学3年の頃にはマルクス、エンゲルスなどの『共産党宣言』や『国民経済学批判大綱』等を読むようになる。また中国語を学び始める。父溥傑の安否を問うために、周恩来総理に直接手紙を送った。

学習院の女子部の頃には、将来は中日友好の架け橋になりたいと志し、中国の古典文学や清朝史、中国史に関する本の他、ギリシャ神話や哲学の本などを読む。

 

そして学習院大学の国文科に入学する。第一志望は東京大学の哲学科であったが、親類一同にこぞって反対されたため断念した。

入学後最初のコンパの席上で、「汝の未来の理想の夫と妻をクラスメイトから選ぶべし」という紙片が回され、女子では慧生が1位に選ばれた。また、講義のノートがとれなかったから貸してほしいという名目で、つきまとう男子学生もいた。優しく、人から頼まれるとイヤといえない性分であったようである。

しかし非常識な求愛に悩まされることもあったようで、友人に「なぜ、男と女に友情は成立しないのかしら?他校から入った男の人は友人もいないし、私も学習院のカラーにないものが得られると思って、親切にしてあげるんだけど、男の人はそれを愛情と勘違いするのね」と嘆いている。

 

大学2年生になった慧生は、大久保という男性との付き合いに悩む。彼は慧生と同じ大学に通う学生で慧生に異常な執着を見せる。非常に独占欲の強い性格で、慧生が他の男子学生と口を聞くだけでも、「お前はあの男となぜ親しくするんだ。そんな気ならお前もあいつも殺してしまうぞ」と責めたてることがあった。彼の友人が、慧生の持って生まれた宿命的な立場を話して聞かせ、交際しないほうがいいと忠告すると、その友人と絶交する。また、他にも忠告をしようとした友人を大学の階段から突き落とそうとしたり、慧生と親しく口を聞いた人を呼び出して、決闘を申し入れようとしたりした。

慧生は大学の先輩に大久保とのことを相談するが、「君が大久保君の激しい気性に辟易する気持ちは分かるが、あのとおり熱しやすい性格だから、君が今逃げるとますます執拗に追ってくると思う。君のほうがもう一段と高く母のような立場に立って、彼の悩みを徐々に癒してやってはもらえないだろうか」と、逆に諭されてしまう。それでも耐えかねて、何度も交際をしたくないと申し入れていた。

大久保は、たびたび「俺は失恋した」と広言し、鎌倉の円覚寺に座禅を組みに行ったり「心の迷いが取れたから、もうつきまといません」と断言して坊主頭になったりすることもあった。

そして、「単位が取れなくて来年落第しそうだから、慧生と同じクラスになれない」と悲観していて、「学校をやめる」と言っていた。また、彼の家庭内では父親に女性問題があり、そのことで悩んでいた。「ああ、自殺したい」と口癖のように言っていた。

 

天城山心中事件

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 この日、慧生は風邪をひいて38度の高熱を出し、ネルー首相に招待されたパーティーを欠席。しかし、大久保から電話がかかり、「今から自殺しに行く。その前に、もう一度だけ会って死にたい。いまから家を訪ねていく」と言われ、家族に迷惑がかかるといけないと考え、外出する。

 自由が丘に着いた慧生は、いきなり大久保から胸にピストルをつきつけられ、一緒に死んでくれと言われる。この時は、懸命に説得して自殺を思いとどまらせピストルを預かった。

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 大久保にピストルを返す。

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 門限の午後8時になっても慧生が帰宅しない。連絡もない。

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 友人、タクシーの運転手の証言から、大久保が慧生を伊豆の天城山へ連れ出したことが判明。天城山で捜索が始まる。

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 5日間に及ぶ捜索の末、大久保と慧生の遺体が発見される。2人ともピストルでこめかみを打ち抜いていた。ピストルは大久保の手に握られていた。

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 「天城山で二人は散った」「天国で結ぶ恋」というような見出しが新聞や雑誌を飾った。

 

しかし、慧生は12月のカレンダーに予定を綿密に書き込んでおり、机上には来年の抱負を書き綴った年賀状が何枚か積まれていた。注文したオーバーコートが出来上がるのを楽しみにしており、失踪当日も、いつもと変わらず、授業に必要なものしか持って出なかった。心中を覚悟していたとは考えにくい。死ぬつもりの無かった慧生を殺害した後に、大久保が自殺したと考えるのが妥当だろう。

 

大久保はストーカーだったのか

ストーカー行為とは特定の人に対する恋愛・好意の感情やそれに派生する怨恨の感情を満たす目的で、つきまといや待ち伏せをしたり、面会や交際を要求したり、無言電話をしたり、著しく乱暴な言動を働いたり、汚物を送付したり、名誉を害することを告げたり、性的嫌がらせを反復して行なうこと。

ストーカーには充実した学業や仕事もないし、それなりに自分に楽しみを与えてくれる家族や友人や趣味もないし、将来への希望もないのである。だから相手を忘れることができない。

 

慧生はターゲットになりやすかったのか

@     特別に美人というよりも、きれいでかわいいというタイプ。

A     笑顔や声や身体の動きに清潔な色気や甘さがある。

B     明るくて社交的。

C     強烈な個性は感じられない。

D     やさしく、思いやりがあり、心が広そう。

E     服装や髪型なども適当に流行を追っておしゃれをしているが、過激な感じはなく、素直で自然。

F     社交的なわりにはどこか寂しげで孤独。

G     気が弱そう。

H     怒ったり、ヒステリーを起こしたりはしない。

I     男も含めて人間を信用していて、新しい男とも恋愛関係に入るのにあまり躊躇しない。

 

重なる不幸

 ストーカーはターゲットとの何らかの決着を望んでいるのではない。少しでも長くターゲットとの関係を維持して、甘えたり、文句を言ったりしていたいだけなのである。絶対に連絡を取ってはいけない。

加害者に対する情がある、あるいは、また自分にも弱みがある場合、相談が遅れる。警察やカウンセラーに相談に来る時には、心理的、物理的にも非常に危険な局面にきてしまっていることが多い。

そして、代々清朝の王家では、最初に生まれた姫(大格格)は薄命であった。溥傑のすぐ下の妹も早くに死んでいる。

 

参考文献

『流転の王妃の昭和史』  著者 愛新覚羅 浩  1992年  新潮社

『ストーカーの心理』   著者 荒木 創造  2001年  講談社