3.自由権と社会権


 3-1 自由権の分類

自由権は以下の3つに分類できる。すなわち、精神的自由権、経済的自由権、身体的自由権である。

 1.精神的自由権
思想・良心の自由(19条) 信教の自由(20条1項前段)
集会・結社、表現の自由(21条) 学問の自由(23条)

 2.経済的自由権
居住・移転、職業選択の自由(22条) 財産権の不可侵(29条)

 3.身体的自由権
奴隷的拘束や苦役からの自由(18条) 法定手続の保障(31条)
住居の不可侵(35条) 被疑者・被告人の権利保障(33条、36〜39条)

このうち、日本国憲法では身体的自由権の規定が他に比べて詳細である点が特色の1つだと言えるが、それは明治憲法下で実際に行われた弾圧等への深い反省に立っている。

 

 3-2 精神的自由権の優位

精神的自由−殊にその中心にある表現の自由は、経済的自由に比べて優越的な地位にある。それは条文からも明らかである。

 21条1項 集会・結社、表現の自由
集会、結社、及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 22条1項 居住・移転、職業選択の自由
何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

→見て分かる通り、精神的自由には公共の福祉という留保が存在しない。

 

 3-3 表現の自由の限界

もっとも憲法上厚く保護されるべき表現の自由も、無制限なものではない。他の守られるべき権利との関係で制限されることがある。

(表現の自由が他の権利や犯罪と衝突する場合の例)
 プライバシーの権利(名誉毀損罪)と表現の自由
→「宴のあと」事件(東京地裁S39 9/28)

 わいせつな表現(性表現)と公序・良俗(わいせつ物頒布等・刑175条)
→チャタレー事件(最大判=最高裁大法廷判決S32 3/13)

そのような場合には、以下に挙げる基準等をもって双方を調整することになる。

 「明白かつ現在の危険」の原則
→表現行為が重大な害悪をもたらす蓋然性が明白であり、かつ、その害悪の発生が差し迫っている場合を除き、表現行為を規制してはならない。

「自由な言論をいかに厳格に保障したとしても、劇場の中で、いつわって火事と叫び混乱をひきおこすことを保障するものではない」
−米連邦最高裁・ホームズ判事


 衡量論
→言論の自由によって得られる価値と、他の抵触する価値とを比較衡量することによって自由の限界点を定めようとする。

 

 3-4 生存権の法的性質

  第25条1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する

 生存権は社会権(25‐28条)の規定の総則的地位(中心的地位)にあると言われている。

 だが、自由権とは異なり、この規定が何を定めたものなのか−具体的に生存権を直接の根拠にして国に施政を求められるか、それともただの理念、建前に過ぎないのか−については従来から争いがあり、判例は生存権訴訟において次の考え方を採用している。

 プログラム規定説(判例)
→25条1項は、(すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みうるように国政を運営すべきことを)国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を付与したものではない(朝日訴訟にて採用)

 確かに、生存権は条文(25条)を根拠として権利を請求できる具体的権利とは言いにくいが、自由権的効果(国が個人の生存権を侵害するような行為をしてきた際に、その干渉を排除する)や裁判での規範性を確かに持つことから、純粋なプログラム規定説(国家の方針・目標を示しただけ)とも考えにくい。

 よって、現在、生存権は「プログラム的性格と権利的性格を併せ持つ」との考えが多数を占めるようになって来ている(抽象的権利説)。